4月1日。
2020.04.01
東京は雨降りです。
今日から妹が、社会人としての道を歩きはじめました。
看護師として、この状況からのスタートです。
3月中旬に行われるはずだった大学の卒業式は中止となり、卒業証書を大学の受付に貰いに行くだけに。それでも、彼女は締めくくりとして着物が着たいと言うので、母も、真ん中の妹も、私も、その姿を見届けようと家族で集まって、写真に納めました。
私と下の妹は11歳差があるので、母はずいぶん長いあいだ子育てをして来ました。たくさん苦労をかけました。たくさん愛情を注いでくれました。
私が23歳の時、下の妹が中学2年生の時に、父が亡くなりましたが、それまで父にも大きな大きな愛情で育ててもらいました。
無事に三姉妹みんな社会人となりました。
お父さん、お母さん、本当にありがとう。
三人共、幼稚園から高校まで同じ敷地内にある学校に電車で通っていたので、私が幼稚園児の妹を送って行ったり、お迎えに行ったりもしていました。
真ん中の妹は裸足で学校から帰ったり、仰天することを色々していたので、両親がよく学校に呼び出されていました。
学生生活、そしてこれまでの生活、色々なことが思い出されます。
父があんなに若いうちに、あっという間に亡くなることは予想できなかったけど、父の愛情はいつも私の胸のなかにあるし、誰もが「死」と隣り合わせに生きているのだということを教えてもらって、ある程度自覚して過ごしているつもりでいました。
それでも今はやっぱりちょっと怖いです。
誰も予想していなかったことが今実際に世界で起こっていて、結末も見えないままで、不安でたまらなくて、家にいたくてもいられないこともあって、生きるためには出かけて仕事をしなければならない場合もある。危険だとわかっていてもそこに立ち向かわなくてはいけない場合もある。そして仕事をしたくてもできない場合もある。
でも一番の不安の影は、「この状況を危機と感じていない人がいる!なんで!?」と思うことかもしれない思いました。
「自分さえ良ければいい。」
これは当事者ではなくて、周りから見た人から出る言葉だと思います。
もしかしたら気づかないうちに、自分の行いが、周りからはそう見られているのかもしれない。一つ一つ、自分でも疑ってみようと思いました。
人間、窮地に陥ると、どうしたって意地悪な部分が出てくることもあるような気がします。この先感染が薄れて来たとしても、経済がオーマイガーになると、やっぱり命を守るために過激なことが増えてくるかもしれません。
そんな時に、人を押しのけて前へ進もうとするのではなく、どうやったら、冷静に、人と人が手を取り合って協力できるのか。前へ進めるのか。どうやったら笑顔になれるのか。それを今のうちから考えておきたいなと思っています。
一人で何かを達成しようとするよりも、二人、三人、みんなでタッグを組めば相乗効果があるはずです。でもそのためには、人と人が揺るぎない信頼を結べるかどうかなのですよね。
『どう生きるか』が問われる時代ですが、私は『誰と生きるか、どこで生きるか、そしてどう生きるか』を考えようと思います。
おとといの夜、色々な考え事をしながらたどり着いたのが、「すみれ」の花でした。
「すみれ」はちょうど今の季節にたくさん花が咲きますが、誰が種を蒔くのでもなく、自然に道端に咲きます。可憐なイメージでありながら、ガードレールの隙間とか、コンクリートの割れ目でも花が咲いていたりもして、なかなかの生命力です。
それが・・・驚くことに・・・昨日の朝、私のもとに届いたのです。
いつもお世話になっている悉皆屋さんのおじさまが、玄関先まで持って来てくださったのです。「急にね、庭に沢山すみれが咲き出して。この鉢にも勝手に生えているのを見たら、ふと貴女のことを思い出したの」と。
なんとういう不思議なお話しでしょう。
イメージしていたものが、すっと手元に現れるなんて。
葉っぱが虫に喰われていても、それでも可憐な花を咲かせていて、とてもワイルドです。ベルベットのような深い紫も、なんだかとても格好良いです。
母から聞いたのですが、すみれの花は植え替えると途端に枯れてしまうと。
手を入れてはいけないのですね。
なのでこのまま、太陽の光を浴びられる場所で、様子を見ることにしました。
野に咲く花は、どんな過酷な環境でも、地面にしっかりと根を張って、それでいながら健気で可憐な花を咲かせて、人間にほっと安らかな笑みを届けてくれる。
見習いたいです。
いつも穏やかに笑っていたいものです。
最後になりましたが、志村けんさん。
温かな笑いを届けてくださり、本当にありがとうございました。
(舞台を拝見した時の「ののがたり」)
今日は長い独り言を書いてしまいました。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
すみ花